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アタリショック論(2) サードパーティの誕生 [レビュー]

 私がジム・レビーと出会ったのは、1980年1月にラスベガスで開催された家電見本市だった。彼はアラン・ミラー、ボブ・ホワイトヘッドと共にアクティビジョンの設立を発表したのだ。
 私は、彼を愚かだと思った。
 既にアタリ自身が数多くのゲームソフトを供給しているのに、さらにゲームを必要とする消費者が居るとは想像できなかった。消費者はアタリのゲームとアクティビジョンのゲームを、グラフィックで区別することなどできないだろう。そして、今までに聞いたことがないメーカーのゲームに、小売価格で3~5ドル余計に支払う者が居るとは思えなかった。

―― マテル・トイ社のマーケティング担当重役を務めたマイケル・カッツの回想
[1]




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 アタリ社は『アタリ2600VCS』の技術仕様を公開しており、多少のプログラミング技術があれば誰でも『アタリ2600VCS』用のゲームソフトを作ることができた。実際、多くのソフトメーカーが競ってソフトを開発し、それが『アタリ2600VCS』の普及に貢献することになる。
 しかし、やがてソフトの粗製濫造がはじまり、安直で粗悪な内容のゲームが数多く出回るようになり、消費者に飽きられ、そっぽを向かれ、ブームは一気に冷え込み、テレビゲーム市場はもろくも崩壊してしまう。

―― 『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』 (00年)
[2]

いわゆる「アタリショック」と呼ばれるアメリカの家庭用ゲーム市場崩壊において、必ずと言ってよいほど目にするのが、“アタリ社はVCSをオープン化していた”、“誰でもVCS向けのゲームソフトを作ることができた”という通説だ。
筆者は、ゲームソフトの粗製濫造に全ての責を押し付けるかのような「アタリショック」観には批判的な立場にあるが、確かに82年から83年にかけてサードパーティより大量のゲームソフトが発売されていたことは一面の事実である。(第1表を参照のこと)
そして、“アタリ社はVCSをオープン化していた”との通説は、(結果的にではあるが)間違いではない。しかし、事はそれほど単純ではないのである。
本稿では、史上初のサードパーティとして知られるアクティビジョン社の成立に焦点を当てることにより、当時の家庭用ゲーム産業がどのような状況にあったかを示してみたい。

まず大前提として、アタリVCSが発売された1977年の時点で、外部会社がソフトを供給することは全く想定されていなかった点を留意すべきである。
フェアチャイルド社のチャンネルF(76年)に次いで、アタリVCSはROMカートリッジ交換方式を採用した最初期のゲーム機と言える。そして、当時の家庭用ゲーム機は、プラットフォームホルダー自身が全てのゲームソフトを販売することが常識であった。

さて、本体価格が約200ドルと高額であったこともあり、発売当初は思うように売れなかったVCSではあるが、徐々に市場で評価されるようになり、79年までに80万台以上を販売している。そこで、アタリ社のVCS対応ソフト開発者の中に、売上に応じた報酬の支払いを求める者が現れた。
70年代後半の頃、家庭用ゲームの開発規模はまだ小さく、一人の人間がゲーム開発の全てを担当することが一般的だった。彼等は、VCSの普及に貢献した自分達のゲームを正当に評価して欲しいと声を挙げたのだ。

activision.jpgしかし、開発者達の訴えはにべもなく退けられた。アタリ社上層部は、優れたビデオゲームを生み出すには属人的な才能が必要であるという事実を全く理解していなかったのだ。
そこで、アラン・ミラーをはじめとする4人の開発者はアタリを退社し、独自にVCS対応ソフトを販売する会社を興すことを決意した[3]。ただし彼等は会社経営に関しては素人であったため、法律事務所の紹介を受けて、レコード会社の業務経験があるジム・レビーが代表者に就任する事になった。こうして1979年10月、史上初のサードパーティ・パブリッシャーとなるアクティビジョン社が設立される[4]

アクティビジョンに対するアタリの反応は明快であった。アクティビジョンはVCSにゲームソフトを供給する権利を何ら有していないと、司法に訴えたのである。

 アクティビジョンを始動した後、アタリは我々に対して訴訟を起こした。6ヶ月ごとに、3度にわたって、個人と法人の両方を相手に。

―― アラン・ミラー(アクティビジョン創設メンバーの一人)の回想
[5]

結論から言うと、アタリ社の訴訟は完全に失敗であった。
実はアラン・ミラーたちはアクティビジョンの設立に際し、VCSへの参入には法的な障害が存在しないことを予め確認していたのだ。前述の通り、当時の家庭用ゲーム機は外部会社の参入を想定していなかった。そのため、アタリVCS本体には法的あるいは技術的な防護措置が施されていなかったのである。

最終的に、アタリとアクティビジョンは82年に法廷外和解に至る。その際に取り交わされた条件は、アクティビジョンがVCS対応ゲームソフトを販売することを認める代わりに、パッケージに"Atari Video Computer System"の商標を明示すること、そしてカートリッジの販売数に応じてロイヤリティをアタリに支払うことであった。我が国では、“VCSにはライセンス制度が無かった”との誤解をしばしば見かけるが、それは正確ではないのだ。

アタリとアクティビジョンとの間で争われた一連の裁判を通じて、外部の会社がVCS対応ソフトを販売できるという事実は白日の下に晒されることになった。また、冒頭に引用したマイケル・カッツの予想に反して、アクティビジョンは設立初年度より大きな成果を挙げることになる。80年末までの同社のゲームソフトの売上は6590万ドル、利益は1290万ドルに達した。
1981年から1984年にかけて、実に30社以上のサードパーティがアタリVCSに参入することになるのだが、これはアクティビジョン社というパイオニアが存在したからに他ならない。

確かに、アタリVCSには後の任天堂が行ったような「ゲーム内容の事前審査」「年間販売タイトル数の指定」や「マスクROMの製造委託」といった制約は無かった。“オープン化”という表現もあながち間違いではない。
とはいえ、アタリVCSにサードパーティが大量参入するに至った背景には、“誰でもソフトを作ることができた”などと一言で済ますことができない幾多の経緯があったことを是非とも記憶に留めておいて頂きたい。

尚、“アタリ社はVCSの技術仕様を公開していた”との通説は全くの誤りである。そのような事実は存在しない。アクティビジョン社のようにアタリ出身者が関与した会社は、当然のことながら参入当初から開発ノウハウを知る立場にあった。
では、それ以外のサードパーティはどうであったか?
例えば、1981年にVCS市場に参入したゲームズ・バイ・アポロ社で、最初に雇用されたゲーム開発者のエド・サルボは、VCSのプログラミングは独学で習得したと証言している[6]。あるいは、1982年に参入した玩具メーカーのパーカー・ブラザーズ社の場合も、外部の技術者を雇ってリバースエンジニアリングを行い、VCSの内部仕様を解析した[7]
即ち、サードパーティ各社は、独自にVCSの開発ノウハウを蓄積していったというのが真相である。

(続く)

[1] 『The Ultimate History of Video Games』 Steven L. Kent 2001年
[2] 『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡』 滝田誠一郎 青春出版社 2000年 
尚、原文では「出回るようになるり」となっていたので訂正した。
[3] 写真:アクティビジョン設立に参加した4人の開発者。左上より時計回りに、アラン・ミラー、ボブ・ホワイトヘッド、ラリー・カプラン、ディビッド・クレイン。ちなみに正確には、ラリー・カプランがアクティビジョンに合流したのは会社設立後の79年12月。
[4] 説明不要かと思うが、アクティビジョン社は現在でも存在している。08年にヴィヴェンディ・ゲームズと合併し、アクティビジョン・ブリザードとなった。特に近年は、『コール・オブ・デューティ』シリーズがあまりにも有名であろう。
[5] ○Gamasutra - Features - Atari: The Golden Years -- A History, 1978-1981
[6] ○DP Interviews... Ed Salvo
[7] 『Racing The Beam – The Atari Video Computer System』 Nick Montfort and Ian Bogost 2009年
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