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ライナーノーツ for 『ATARI GAME OVER』 [レビュー]


ATARI GAME OVER アタリ ゲームオーバー [DVD]

ATARI GAME OVER アタリ ゲームオーバー [DVD]

  • 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
  • メディア: DVD


 いよいよDVDが発売となった、『ATARI GAME OVER』日本版。すでにお手元にある方も多いのではないかと思います。

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 さて、去る9月5日に秋葉原で行われた『ATARI GAME OVER』の先行上映会において、会場配布用の解説文を提供させていただきました。『E.T.』開発者のハワード・ウォーショウの経歴に加えて、ドキュメンタリー本編では触れられていない小ネタをいくつか盛り込んでおります。

 そこで以下、上映会で配布された解説文を公開させていただきます。『ATARI GAME OVER』をご覧になった方はもちろんのこと、今から購入をお考えの方も、『E.T.』とその埋葬伝説が生まれた背景に興味をもっていただくことができれば幸いです。



『E.T.』とその時代 ――― アタリ社と1983年のゲーム市場崩壊

 1982年、アメリカにおける家庭用ビデオゲームの市場規模は30億ドルに達していました。しかし、翌83年に入ると売上は急落。市場規模は約20億ドルへと縮小してしまいます。それまで右肩上がりで成長していた家庭用ゲーム市場が大きく後退したことにより、数多くのゲーム関連会社が倒産、市場撤退する事態となりました。
 このことを指して、海外では"Video Game Crash of 1983(1983年のビデオゲーム市場崩壊)"、日本ではアタリショックと呼ばれています。

 我が国での呼び名が端的に示すように、1983年の市場崩壊において、当時業界トップの地位にあったアタリ社が重要な役割を担っていたことは間違いありません。アタリ社は、1977年にカートリッジ交換型家庭用ゲーム機のAtari 2600を発売、1982年までに1000万台を販売する大ヒット商品となっていました。
 しかしその人気の裏側で、アタリ社はマーケティング主導による低品質なソフトを乱発。とりわけ1982年末に発売された『E.T.』は、高額のライセンス料と楽観的な販売予想に基づき500万本が製造されるも、そのゲーム内容はあまりに酷く、大半が売れ残ったと伝えられます。
 1982年に3億ドルの利益を上げていたアタリ社は、1983年に一転して5億ドル以上もの損失を計上。この、「出来の悪いゲームソフトが消費者離れを引き起こし、トップメーカーの業績悪化のみならず市場全体の縮小を招いてしまった」というストーリーは、ゲームビジネスの重要な教訓として広く語り継がれてきました。
 しかし、これは当時の家庭用ゲーム市場の一面に過ぎない認識と言えるでしょう。

 先に述べたようにAtari 2600の発売は1977年です。1983年の時点で発売より5年以上が経過した旧世代機となっていました。これに対して、マテル社のインテリビジョン(80年)、コレコ社のコレコビジョン(82年)など、競合他社からAtari 2600よりも性能で勝る家庭用ゲーム機が相次いで登場。さらにアタリ社自身、82年にAtari 2600の後継機として新たにAtari 5200を市場投入しています。
 1983年の家庭用ゲーム市場は、圧倒的なシェアを持つ旧世代機の座を巡ってのゲーム機戦争が、歴史上初めて生じていたのです。

 加えて、Atari 2600が発売された70年代末の家庭用ゲームビジネスにおいて、プラットフォームホルダー以外の会社がソフトを供給することは全く想定されていませんでした。しかしAtari 2600の成功を受けて、82年から83年にかけて多数のサードパーティ(外部会社)が市場参入。アタリ社にとっては不本意ながら、なし崩し的に門戸が開かれた形となりました。その結果、Atari 2600のソフトウェア市場は、競争多くして利益が少ないレッドオーシャンと化していたと表現できます。
 
 もちろん、『ATARI GAME OVER』の中でも指摘されているように、『E.T.』のずさんな販売計画を許したアタリ社の体制そのものに問題があったことは、市場崩壊の核心の一つと言えます。
 ですが、そもそもの話として、Atari 2600は初めて商業的に成功した家庭用ゲーム機であった点を無視するわけにはいきません。『E.T.』が生まれた時代の背景には、ハードウェアとソフトウェアが緊密に一体化した家庭用ゲーム市場が、前例のない規模にまで急成長したが故の苦闘や誤算がいくつも存在しました。
 30年余りの時を経て、アラモゴードの地中奥深くに埋葬された『E.T.』が日の目を見たように、1983年の家庭用ゲーム市場の趨勢はどのような状況にあったのか、今一度確かめてみる必要があるのではないでしょうか?



■『E.T.』の生みの親 - ハワード・ウォーショウの横顔

 ハワード・スコット・ウォーショウ(Howard Scott Warshaw)は、ルイジアナ州ニューオリンズに位置するテューレーン大学を卒業。ヒューレット・パッカードにエンジニアとして約一年間勤務した後、1981年1月にアタリへプログラマーとして入社します。

 彼が手がけた最初の仕事は、シネマトロニクスの業務用ゲーム『スターキャッスル』をAtari 2600用にアレンジした『ヤーズ・リベンジ(Yar's Revenge)』。このゲームの成功をきっかけに、ウォーショウは新進気鋭のゲーム開発者としてにわかに脚光を浴びることになりました。

 続いてウォーショウは、アタリ社初の映画原作ゲームとなる『レイダース/失われたアーク』を担当。複雑なパズルを解いて行く挑戦的なデザインと、Atari 2600の性能を存分に引き出したグラフィックは、当時高く評価されました。実際、1982年6月のCES(家電見本市)において、『レイダース』のプレイビデオを目にしたスティーヴン・スピルバ-グは、「これはまさに映画のようだ」と賞賛の言葉を述べたそうです。

 しかし1982年7月、彼の運命を変えることになる一本の電話が鳴り響きます ――― わずか5週間半の日数で、映画『E.T.』に基づいたゲームを完成させることはできるか、と。その顛末は、『ATARI GAME OVER』で詳しく述べられているため、ここでは触れません。

 最終的に、Atari 2600で市販されたウォーショウのゲームは、上に挙げた『ヤーズ・リベンジ』『レイダース』『E.T.』の計三本。アタリ社の全盛と凋落の時を共に駆け抜けたウォーショウですが、そのプログラマーとしての活動期間はわずか数年に留まります。それでも、彼が生み出した一連の作品は今もなお、Atari 2600を知る多くのゲームファンの心に深く刻まれているのです。



■Behind The Scene - 『ATARI GAME OVER』で語られなかったトリビア集

・『ATARI GAME OVER』の中でも言及されている通り、『ヤーズ・リベンジ』というタイトル名はアタリ社CEOのレイ・カサールにちなんでいる。当初、このアイデアは社内で難色を示された。しかし、ハワード・ウォーショウはマーケティング部門に対し「カサールはこのことを了承済みで、タイトル名も気に入っている」というウソを伝えて、採用されることが決まった。

・『E.T.』の開発は、ウォーショウの他にもう一人、ジェローム・ドムラット(Jerome Domurat)が関わっている。彼はグラフィックデザインを担当した。

・『ファイヤー・フライ』は、ミシコン(Mythicon)社が1983年に発売したAtari 2600用ゲーム。当時、一般的なソフトの小売価格が30ドル前後であったのに対し、ミシコンは一本9.95ドルの廉価販売戦略を打ち出した。しかし肝心のゲームのクオリティも三分の一以下で、ユーザーに大不評。Atari 2600のワーストゲームの一つとして、知る人ぞ知るタイトルである。

・実は『ATARI GAME OVER』による発掘プロジェクトをきっかけとして、83年にアラモゴードへの製品廃棄の責任者を務めたアタリの元社員が名乗り出ている。元社員の証言によれば、埋葬されたゲームソフトの数は約73万本で、その全てが小売店から返品されたものであったそうだ。


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